なぜ大人になっても成長を求められるのか
- Essay
先日、上司(の上司)から突然「みよしさんは成長したいですか?」とたずねられた。 上司の手前、「とくに成長したいとか思ってないっす」という答えは印象が悪いし、実際、成長したくないというわけではない。 とはいえ、「成長したいです!」と全面的に肯定するような感じでもない。 そんなことを考えた挙げ句「成長したい……んじゃない……ですかね……?」と曖昧な返事をした。 「じゃあ、なんで成長したいんですか?」と、上司が続ける。 いま「成長したい」と答えたのは、上司に対して小さな見栄を張ったからで、ひいては会社での評価のためである。 しかし、「会社の評価項目にあるからです」という答えは、「主体性」という評価項目に反するので言うべきではない。 それ以前に、会社の評価のために成長したいというのはちょっと違う。 ぼくは「うーん、難しいですね……」といってお茶を濁した。 その後の話からすると、上司自身も「成長」という言葉になにか違和感を持っていたらしい。 ぼくもなぜうまく答えられなかったのか、この上司の質問について少し考えてみたい。
まず、なぜ「成長したいですか?」という質問に即答できなかったのだろう。 小さい頃は簡単だった。 身体的な面で目に見えて成長していたし、成長したい=大きくなりたい、大人になりたいだったからだ。 また、学生の頃もまだ簡単だった。 社会人として一人前になりたい、自立したいと思っていたからだ。 では、どうして社会人になったいまは「成長したい」と即答できないのか。
それは、すでに身体的な成長は止まっているし、自立もできているからだ。 かといって、もうまったく成長することがないかというとそうではない。 自分が人として完成しているなんていえるはずもなく、まだまだ未熟なことだらけだ。 ただ、「大人になりたい」「社会人になりたい」というのに比べると、単純に「成長したい」というのはあまりに漠然としている。 だから、答えにくかったのだと思う。
次に、「なぜ成長したいか」のほうに問いを移そう。 「成長」の先にあるのが人としての完成、つまり自己実現だと考えれば、それは人間の自然な欲求のひとつである。 そう考えると、ぼくが「会社の評価項目にあるから」という答えに違和感を覚えたのは、それが自己実現よりも低い次元の欲求からくるもので、成長の先にあるものではなかったからだとわかる。
ここで、新たな疑問が生まれる。 なぜ、上司が部下の成長を気にかけるのだろう。 つまり、なぜ、会社は社員の成長を求めるのだろうか。
会社が社員の能力向上を求めるのは当然である。 会社の目的のひとつは利潤を追求することであり、社員の能力が向上し、生産性が上がれば、より大きな利潤を得ることができる。
では、なぜ「成長」という言葉を使うのだろう。 そこには「仕事における技術・能力の向上」だけでなく、自己実現のような主観的で全人的なものを含むニュアンスがある。
それは、自己実現に向かって成長する人材のほうが、そうでない人材よりも会社にとって都合がよいからである。 給料がほしいとか、承認されたいといったモチベーションで働く人にとっては、可能な限り少ないコストで会社からより高い評価を得ることが合理的である。 それに対し、仕事と自己実現とが一致している人にとっては、よりよい仕事をすること、それ自体が合理的な行動になる。 また、給料や地位が目的の人は、より高い給料や地位を得られる機会があればすぐに離職してしまうだろう。
はじめの会話の中では、「「情熱を探そう」というアドバイスはもうやめよう」という記事が話題になっていた。 この記事では、「情熱を見つける」のではなく、「情熱を育む」べきだといっている。 これはつまり、いきなり自己実現を目的にしようとするのではなく、別のモチベーションからでも徐々に自己実現へとシフトする(=成長する)ことを目指そうということだ。 結局のところ、成長したいと思えるというのも、ひとつの社会人スキルなのである。