大学4年間を終えて

  • Essay

先日,卒論を提出し,4年間の学部生活を終えた。 今回は,この4年間で僕が何を学んだのか,あるいは,大学に行くことにどんな意味があったのか,高校生の頃の自分に伝えるような感覚で書いてみたいと思う。 というのも,今振り返ってみれば,この4年間過ごしてきた「大学」は,僕が受験生の頃に考えていた「大学」とは大きく違うものだったと思うからだ。 また数年経てばこの考えもおそらく変わってしまうだろうが,学部を終えた直後の現在の考えを残しておきたい。

まず,簡単に僕自身のことを書いておく。 僕は高校生の頃,英語と現代文が得意な理系だった。 そして,「総合」とか「人間」といった単語が名前に含まれるような,近年はやりの文理融合を謳った学部に進んだ。 2年から社会学を専攻し,メディア(特にインターネット)やテクノロジー(特にコンピュータ)と社会との関わりに興味を持つようになった。 情報技術自体は小学生の頃からよく触れていて,3年の春には応用情報技術者という資格も取った。 できるだけ一般化して「大学」について語ろうとしても,以上の背景からくる偏りは否めないだろう。

さて,そんな僕が高校生だった頃の自分に伝えたいのは,大学の勉強には実学とそうでない学問の2種類がある,ということだ。 ここでいう実学とは,「社会生活における実用性を重んじる学問」,つまり,「役に立つ」学問である。 たとえば,農学や医学,経営学,情報科学を含む工学。 そうでないもう一方の学問とは,実際生活には全く「役に立たない」学問である。 哲学や言語学,人類学,社会学の一部がこれにあたるだろう。 もちろん,一概に実学とそうでない学問に分けられるわけではなく,程度の問題である。

なぜ,僕は高校生の自分にこんなことを伝えたいのだろうか。 院試や卒業のためにどの科目を履修すべきかでも,就職活動に向けて何をしておくべきかでもなく,どうして「学問には役に立つものと立たないものがある」などということを言いたいのだろうか。 そもそも,「役に立たない学問」とはどういうことなのだろう。

高校生までの僕は,学問とは全て遠まわしであれ何らかの形で社会に役立つものだと信じていた。 中学までの勉強は社会の一員として必要最低限のことを知るためのものだった。 高校の勉強は――少なくとも僕にとっては――大学で勉強するための基礎であり,いい大学へ行くために必要なものだった。 そして,いい大学で勉強すれば,いい職業に就いて高い給料がもらえる,あるいは,科学技術や日本経済の発展に貢献できる。 そうしたい,そうなりたいと考えていた。 それが常識である。

しかし,大学に入ってはじめに教えられたのは,そういった常識をぶち壊すことだった。

ここで一つ,大学入学後すぐに受けたある講義の話をしようと思う。 僕が大学に入ったのは2011年で,東日本大震災の直後だった。 世間は自粛ムードであり,不謹慎な行動や発言は慎むべきだという空気が蔓延していた。 しかし,先生は「大学の教室は世間とは切り離された空間であり,そうした社会的圧力から逃れるべきだ」といい,自粛ムードをジャーナリズムが作り出した「ポルノミゼリア」の一種だと批判した。 「ポルノミゼリア」とは,「ポルノの材料のように消費される悲惨さ(misery)」を意味する。 生まれた時代や場所などによって運良く豊かな生活を送れている人々は,恵まれない境遇の人々に対するうしろめたさを感じている。 彼らは,ジャーナリズムが喧伝する恵まれない人々に共感し同情することで,良心の呵責から逃れようとする。 しかし,良心の呵責を免れたいという個人の欲求のために「悲惨さ」に一時的な同情を寄せることは,自慰行為のためにポルノを消費することと変わらない。 お涙頂戴の戦争モノには,罪の意識から逃れたいという潜在的欲求をもつ人々の需要を満たすという,道徳とはほど遠い経済合理性が隠れているのである。 また,感情に訴えることを目的に作られた「悲惨さ」は私たちの理性的な判断を狂わせる。 特に,アウシュヴィッツやヒロシマ・ナガサキには,ジャーナリズムが形成したステレオタイプな「悲惨さ」のイメージがこびりついている。 私たちは,それらに相対するとき,そのイメージのためにどうしても感情的になってしまい,色メガネなしに直視することができなくなっている。 東日本大震災についてきちんと議論したいならば,同様の偏見はできる限り排さねばならない。 ――4年も前のことなので,詳細は忘れてしまったが,以上のようなことを先生は言っていたと思う(ポルノミゼリアのくだりはこの前見たStella YoungのTEDの講演に出てきた「感動ポルノ」という言葉で思い出した)。 念のため断っておくが,この話は戦争や災害の悲惨さを伝えることがいけないといっているわけでも,それらに同情を寄せることが不道徳だといっているわけでもない。 ましてや,アウシュヴィッツやヒロシマ・ナガサキ,東日本大震災が悲惨でなかったというわけでもない。 「こういう見方もできる」ということを指摘しているだけである。

少し話がそれたが,この例を持ちだしたのは,「大学は社会の一部であると同時に,社会から断絶した空間でもある」ということをいいたかったからだ。 これは,大学が社会生活に有用な実学を学ぶ場であるだけでなく,社会生活の根幹にある常識を突き崩す場でもあることを表している。 僕がここで「役に立たない学問」といっているのは,後者を実践する学問,すなわち,自身を束縛する規範を認識し,価値を相対化する学問のことである。 これらの学問は私たちが常識的に想定している「役に立つ」という概念すらも揺るがす。 ポルノミゼリアの話が「被災者のために不謹慎なことは自粛すべき」「アウシュビッツやヒロシマは悲しみと共に語られねばならない」という常識を取り払ったように。

もちろん,僕自身あらゆる常識から自由になれるわけではない。 しかし,そうした視点を持つこと,持とうとすることは,ものごとを正しく理解し考えるうえで必要不可欠だと僕は思う。 なにも僕は,実学ではなくそうでない学問を勉強しろとか,実学よりもそうでない学問のほうがエラいなどといいたいわけではない。 はじめにも書いたように「2種類の学問がある」ことを知っておいてほしいだけなのだ(このような二元論的な表現は誤解を招くかもしれないが)。 ここまで読んでいただければお分かりだと思うが,僕自身は社会学や哲学が本当に「役に立たない」なんてこれっぽっちも思っていない。 つまり,それらの学問は「役に立つ」ということに対するメタ的視点を与えるのである。

僕が4年前の自分にこのことを伝えたいのは,当時の自分があまりに「大学」で学べる学問について無知だったと思うからだ。 僕は,科学の進歩,経済成長,社会貢献,そして自身および他者の幸福――これらが絶対的正しさであると盲目的に信じていた。 もちろん,これらそのものは間違いではない。 問題は「絶対的」「盲目的」という部分にある。 何かを絶対的正しさだと盲目的に信じることほど危ないことはない。 同時に,それはとても虚しいことだとも思う。 もっと厳密に議論するならば相対主義や懐疑主義という言葉が出てくるだろうが,深くは立ち入らない。 重要なのは,常識を捨て去り俯瞰する視点を持つこができるかどうかということである。

ただ,「良識」的助言をするならば,ここで述べたことは知らないほうが幸せかもしれない。