進路選択に際してもやもやと考えていること
- Essay
今年は進路について考える年でした。 年明けの頃には,周りは就活まっただ中,僕自身も進学を決めこそすれどこへ進むかは未定でした。 そして進学先が決まった今も,修士過程を終えた後どうするのかということで悩んでいます。
進路を決定する際,誰もが考えるのは「自分は何をしたいのか」「どんな自分になりたいのか」ということでしょう。 これはつまり,自身の価値観について考えるということ,自分にとっての幸福を見つけることに他なりません。 就活の言葉でいえば「自己分析」でしょうか。
そして,この際に考えられる現代的な理想の「幸福」(または「価値」)には,大きく分けて二つの種類があるように思います。 一つは,「自分の好きな」あるいは「やりがいのある」こと(多くの場合仕事)に打ち込む幸福です。 もう一つは,「仲の良い友人」や「円満な家庭」を持つ幸福です。 「夢中になる幸せ」と「愛される幸せ」とでも言い換えられるでしょうか。 あるいは,幸せの「公」の側面と「私」の側面という言い方もできるかもしれません。
私たちはこれらの幸福を追求すべきです。 そもそも,私たち人間は本能的に快楽を求めるべくプログラムされています。 そして幸福感は快楽の一種以上のものではありません。 また,「人生に意味はない」なんてニヒリズムを気取ったり,「私は幸せになれない・なってはいけない」などと不幸な自分を肯定したりするのは単なるルサンチマン,すなわち幸福(な人)への嫉妬や羨望でしかありません。
しかし,残念ながら,私たちは幸福を追求すれば必ず幸せになれるというわけではありません。 そしてそれ以前に,ただ幸福を追求すればよいというわけでも,はたまた,必ずしも幸福を追求できるわけでもありません。
幸福の追求には大きな制約があります。 それは,「悪いことをしてはいけない」というものです。 平たく言うならば,黄金律「自分がされて嫌なことは他人にしてはならない」になるでしょうか。 私たちは自身の幸福を追求する多くの過程で,このルールとの板挟みに遭遇します。
また,求める幸福像,つまり「やりたいこと」も「なりたい自分」も時間が経てば変わってしまいます。 そのときどきの幸福を求めたところで,それ自体が変化していくようではそうそう辿り着くことなどできません。 さらに,私たちは常に理想の幸福像のために行動できるわけではありません。 むしろ,食欲や睡眠欲,物欲のような一時的な欲求に振り回されていることがほとんどでしょう。 そして,「やりたいこと」「なりたい自分」を再び考える頃には,すでに以前考えていた幸福を見失っています。
このような他者の幸福との「ジレンマ」と個人の「一貫性のなさ」が,私たちの生を困難なものにしています。 これは,取りも直さず人間社会の複雑さの原因でもあります。
結局のところ,進路選択=自身の幸福に向かう意思決定をすんなりと行うことができないのは,ひとたび「やりたいこと」や「なりたい自分」を見つけても,周りにかける迷惑を思うとなかなかそれに向かって突き進むことができなかったり,すぐに他の「やりたいこと」や「なりたい自分」に目移りしてしまったりするためだというだけのことです。 しかし,それを解決することは本当に難しいことだなと思います。
最後に,今回は幸福こそ善であるというふうに書きましたが,僕自身は「幸福」という言葉がなぜか好きになれません。 どうしても「自己利益」や「快楽」のように自己本位的で低俗なものに見えてしまうのです。 幸福感=脳内物質の効果というイメージのせいもあるかもしれません。 何が言いたいかというと,このブログは「ゆとりずむ」というタイトルだったということです。 僕は「幸福な人生」よりも「ゆとりある人生」のほうがなんとなくいい気がするのです。