「情報と社会を学ぶ」とは

  • Essay

「情報と社会を学ぶ」というのが僕の勉強のテーマであるわけですが,「情報」「社会」なんて2つの単語をただ並べただけではなんのことなのかさっぱりわからないと思います。 かといって,何か具体的な学問領域を学んでいるのかというとそうでもなく,僕自身いまだに自分の関心がどういう学問に向いているのか模索している最中です。 まだまだ道半ばですが,今回は2013年の締めくくりに,現在の僕が「情報と社会」について何を考えいるのか,自分自身の考えを整理する意味合いも含め,一度まとめてみたいと思います。

まず,なぜ僕が「情報と社会」に興味をもつようになったのか。 僕はゆとり世代であると同時に,「デジタルネイティブ」と呼ばれる,幼い頃からデジタル製品に親しんできた世代でもあります。 事実,物心ついた頃には家にPCがあり,インターネットにつながっていました。 小学生の頃,僕はそのインターネットに入れ込み,Webページを作成したり,掲示板やチャットで見知らぬ人と会話したり,オンラインのゲームをしたりしていました。 それをきっかけに「情報」の中でもインターネット,特にWebに関心を寄せるようになりました。

そのインターネットと切っても切れない関係にあるのが「社会」です。 インターネットは今や電気・ガス・水道と同じインフラと化していると言っても過言ではありません。 そして,携帯電話・スマートフォンの普及により誰もがいつでもインターネットにつながる「ユビキタス社会」が現実のものとなってきています。 Webもその変化に合わせて「Web2.0」と呼ばれる形で変容してきました。 Web2.0とは,WikipediaやGoogleの検索・広告等に代表されるような,一方的なサービスの提供ではなく,ユーザがそのコンテンツの形成に積極的に関わっていくサービスのことを指します。 このようなインターネットと社会とが複雑に絡み合い互いに変容していく様子を,10代という時期にその身に感じて,IT技術と社会との関わりに興味をもつようになったのです。

次に,「情報と社会」を学ぶ上で考えねばならないことについて。 まず1つに「技術決定論に陥ってはならない」ということが挙げられます。 僕たちは技術と社会との関わりについて論じるとき,「技術が社会に与える影響」について考えがちです。 この考え方では,技術が一方的に社会を変容させることになり,人類の未来を決めるのは技術者だということになってしまいます。 しかし,実際はそうではありません。 新しい技術をどう受容するかは,その時の社会の状態よって変わります。 例えばインターネットは,攻撃を受けた際に大切な情報を失うことがないよう,情報を1箇所に集中せず分散させるという軍事的な目的のために開発されたのがそのはじまりです。 しかし,今やインターネットは当初の目的からは大きくかけ離れた技術と化しています。 これは社会がインターネットを受容する中で,インターネットそのものの在り方を変えてしまったのだといえるでしょう。 情報と社会との関わりを考える上では「社会が技術に与える影響」という側面を忘れてはなりません。

もう1つ,情報特有の問題として「情報技術の進歩の早さ」が挙げられます。 情報の分野には「ムーアの法則」といって「コンピュータ(正確には半導体)の性能は指数関数的に向上していく」という経験則があります(元々の意味とは少し違いますが)。 この法則によれば,コンピュータは10年で100倍,20年で10000倍のスピードで性能が向上していくということになります。 そして,1965年に発表されたこの法則は今も続いていると言われています。 この進歩のはやさは,社会の他の領域の遅延を生み出します。 たとえば,情報技術に関する法整備。 重さの存在しないソフトウェアを「製品」としてどう扱うのかと言った問題や,簡単にコピー可能なデジタル製作物を「作品」としてどう守るのかといった問題は,情報技術が普及するまで問題にされず,そして普及後かなり時間が経たないと法律の上での答えは与えられませんでした(一部は今でも議論が続いています)。 さらに,教育の分野でも,情報教育として何を教えるべきかが議論され始めたのは,情報技術がすでに身近なものになってからでした。 また,LINEやTwitter等のSNSの隆盛など,教える内容の変化も常に求められています。 今後も新しい技術の出現のたびに,その関連分野での遅延の問題は意識せねばなりません。そしてそのスピードは加速度的にはやくなっていくのです。 (このまま進歩を続ければ,いつかは人間並あるいは人間以上の知性を備えた人工知能が現れるはずです。 その時,社会はそれをどう受容するのでしょうか。 SF好きとしては興味はつきませんが,ここでは現在の話をします。)

さて,そんな「情報と社会」に関して僕が今現在興味を持っているのは「集合知」です。 集合知とは,無数の多様な個人が集まれば,少数の専門家がなしうる以上のことができるというもので,先にも挙げたWeb2.0やオープンソースソフトウェアの文脈で語られることの多い言葉です。 例えば,Wikipediaと普通の百科事典とを比べれば分かりやすいでしょう。 普通の百科事典はそれぞれの項目についてその専門家しか執筆できないのに対し,Wikipediaはすべての人に編集の権限があります。 Wikipediaはそうすることで莫大な項目数や変化への迅速な対応,人気のある項目の詳細な記述を実現しています。 Wikipediaの問題に,記述が不正確である点がよく指摘されますが,それは時間とともに改善されていくでしょう。 何より,Wikipediaが与える恩恵はその不正確さを踏まえてもあり余るものです。

ただ,Wikipediaにおいて,事典の編集に貢献することなくただ閲覧するだけの人がいるように,集合知にはフリーライダーの問題がついて回ります。 こうした問題をいかに解決し人々を協力行動に導くか,そしてそれをインターネット上のグローバルなシステムとしてどのようにまとめあげるかということに,僕は今関心を寄せています。 また,僕が集合知に惹かれる理由として,集合知に人々が貢献する際,個々人は自分の利益を考えていないという点です。 20世紀の間,人は自己利益を最大化するものだという考えが大勢を占めていました。 しかし,21世紀に入るにつれて,環境問題を筆頭に,自己利益だけを考えているようでは解決できない重大な問題が次々と現れてきています。 Wikipediaが環境問題を解決するとは言いませんが,少なくともその解決には集合知的な解決方法が必要なのは間違いありません。 また,「自分のためではなく見知らぬ人々や次の世代のために世界中の人と協力する」というのはそれだけで美しいもののように感じる,というのも集合知に惹かれる理由の1つです。

少し話が飛躍しました。 ここまで理想のインターネット像のようなものを述べてきましたが,これはどう考えても僕の手に負えるような問題ではありません。 今後はもう少しこの分野について理解を深めて,自分にできるところからはじめるということになりそうです。 ところで,僕の土俵は基本的に情報学と社会学なわけですが,このテーマについては公共経済学とか行動経済学と呼ばれる分野が強いみたいです。 自分の関心に合う領域を探しているうちに,より一層路頭に迷ってしまったみたいです。