意識高い系と演技

  • Essay

僕は現在大学4回生で,大学院への進学を考えています。 しかし,周りには就職活動をする友人も多く,彼らから就活をしていると見かけるという「意識高い系」と呼ばれる人たちの話を聞くことがあります。 実際,ネット上にはこの「意識高い系」にまつわる言説が数多く出回っています。

意識高い系とは,簡単に言うと「自分自身の価値を過剰にアピールする人」のことです。 ここでいう価値ですが,彼らにとっての価値とは,コミュニケーション能力等のビジネススキルをどれほど備えているか,に等しいように思われます。 そして,ネットで出回っている言説というのは,そんな彼らの自慢と,彼らを気持ち悪いとする過剰なまでの揶揄です。

僕自身,意識高いと言われたこともあり,また,意識高い系を気持ち悪いと思ったこともあります。 しかし,そんな「意識高い系」言説に触れる中で,不思議に思うことがいくつかあります。 まず,なぜ「意識高い系」はこれほどあからさまに揶揄されているにもかかわらず,意識の高い言説を繰り返すのか。 そしてなぜ,彼らはその揶揄に対して反撃しないのか。 また,なぜ彼らを気持ち悪いと感じるのか。 悪いことをしたわけではないのに,どうしてこれほどまでに叩かれるのか。 以下,これらの疑問について考えてみたいと思います。

まず,「意識高い系」にまつわる現象全体の見通しを得るために,社会学者ゴフマンのドラマツルギーという考え方を援用したいと思います(原典を読んだわけではないので誤った解釈をしているかもしれませんが)。 ゴフマンは,社会的状況における人間の行為には「演技」の要素が含まれているといいます。 なぜなら,行為者はその行為を見る人(=オーディエンス)がそこからどんな情報を受け取るかを事前に予測して,意図的に行為を選択しているからです。 たとえば,FacebookやTwitterに投稿するとき,私たちはその投稿を見る人がどう思うかをある程度考えて言葉を選んでいます。 それはある意味「演技している」といえるでしょう。

では,意識高い系の行為を「演技」として捉えるとどうなるでしょうか。 まず,意識高い系は,オーディエンス(面接官,目の前の友人,SNSの投稿を見る人達 etc.)を意識しています。 そして,彼らはオーディエンスから高く評価されたいという利己的な目的から,行為を選択(=演技)します。 その選択した行為の内容が,過剰な自己主張となるわけです。 しかし,多くの場合彼らの演技は失敗してしまいます。 演技の失敗とは,演技者が意図しない不都合な情報がオーディエンスに伝わってしまうことを指します。 演技者は価値ある自分を表現して演技するのですが,オーディエンスはその演技を見ても彼に価値があるとは思わない,あるいはむしろ価値がないと感じてしまうわけです。

しかし,意識高い系は演技の失敗に気づくことはありません。なぜなら,オーディエンスもまた演技者であるからです。 演技者となった彼らは,オーディエンスである意識高い系の人たちを傷つけないように,行為を選択します。 それは,その場で「すごい」といって演技を肯定することや,SNSで「いいね」ボタンを押すといったことです。 (これを「察しのよい無関心」といいます)。 こうして,意識高い系の彼らは演技が成功したと勘違いしたままとなるのです。

ここから,意識高い系がなぜ自らの行為を改めず,揶揄に対して反撃しないかが説明できます。 それは,彼らは自分の演技が成功している,つまり,オーディエンスは自分を高く評価していると信じ込んでいるからです。 仮に彼らが自分たちの行為が一般に揶揄の対象になっていると気づいたとしても,彼らにとってのオーディエンスは彼らを認めて(いると思い込んで)おり,彼らはそれで満足なのです。

では,次になぜ意識高い系は揶揄の対象になるのかについて。 その理由に,クサイ演技を見せられた時の興ざめ感があるでしょう。 意識高い系は自分に酔った下手くそな演技をしながら,それに気づいていない。 それどころかそれをカッコいいと思っている。 そんな演技を見せつけられては興が冷めてしまいます。 舞台が終われば文句の1つや2つも言いたくなるでしょう。 なおかつ,その下手な演技と本人の意識のギャップが滑稽なのでバカにしたくもなります(滑稽さの代表は「ミサワ」でしょうか)。 これが,意識高い系が揶揄される理由の1つだと思います。

ここまでは,演技が下手でいつも失敗する「滑稽な」意識高い系を扱ってきました。 しかし,どうも意識高い系にはもう1種類,演技のうまい「狡猾な」意識高い系がいるようです。 彼らは,オーディエンスを価値ある自分を表現する人たち(A)とそうでない人たち(B)に区別します。 実際彼らの演技はうまいので,Aの人たちは彼らを演技の姿のまま高く評価します。 しかし,Bの人たちには,彼らがAに対してうまく演技していることが分かるようになっています。 これと同様の例として,先生の前だけいい顔する生徒や,好みの女性の前だけカッコつける男性,イケメンの前だけ女らしく振る舞うぶりっ子等が挙げられます。 これらの例の場合,Aは先生や異性,Bは同級生や同性にあたります。 えてして,Aは演技者よりも立場が上の人たち,Bは演技者が見下す人たちということになります。

もちろん,狡猾な彼らは,演技が成功しているので自らを省みることはしません。 そして,Aは演技こそが真の姿だと思っているので,彼らを揶揄することはありません。 ここではBが彼らを揶揄するわけですが,その理由は滑稽な意識高い系の時とは違います。 それは,演技者が実際の価値以上の評価をA(=権力者)から受けていることへの「妬み」です。 先のぶりっ子の例で考えると,普段はサバサバしているのにイケメンの前になると甘い声を出して可愛がられようとするぶりっ子に対して嫉妬の感情を抱くこと,がそれにあたるでしょう。

ここまでの話をまとめると,以下のようになります。

  • 意識高い系には,滑稽なタイプと狡猾なタイプがある。
  • どちらの意識高い系も,主観的には自分の価値が認められていると感じているので揶揄を意に介さない。
  • 意識高い系を揶揄する人たちは,滑稽なタイプをバカにし,狡猾なタイプを妬んでいる。

しかし,これらは単なる仮説でしかなく,実証的なデータは何一つありません。 また,現実にはこのように2つのタイプにはっきりと分けることはできず,多くの場合,どちらも当てはまるように思います。 意識高い系に対する気持ち悪さとは,滑稽さと妬ましさが入り混じったものなのではないでしょうか。 なお,アイデアもオリジナルというわけではなく,大学のゼミでの議論をもとにしています。 (そこで話題になったのは,承認欲求や「リア充」言説との類似性,ニーチェの「ルサンチマン」でした。) そして,今回は主に個人の動機に焦点を当てましたが,「意識高い系」やそれを揶揄する人たちが生まれる原因を社会の側に求めることも必要だと思います。

参考文献

  • 高橋由典,1986,「自己呈示のドラマツルギー」作田啓一・井上俊編『命題コレクション 社会学』筑摩書房.