ツイッターの不自由

  • Essay

ツイッターを不自由だと感じることがあります。 それを感じるのは,ツイートしたいと思って文章を書いたにも関わらず,最後の「ツイート」ボタンを押せないときです。 ツイッターをしたことのある人は,このような「ツイートしようかと思ったけどやっぱりやめた」という経験が案外あるのではないでしょうか。 なぜ「ツイートしたいのにできない」ということが起こるのか。 これについて,まずツイッターの性質を「つぶやき」との相違から考え,次にその性質がなぜ不自由を生んでいるのかを考えてみたいと思います。

"Tweet", "Twitter" は本来「(小鳥の)さえずり」を意味する言葉です(ツイッターのロゴは小鳥です)。 しかし,ツイッターの日本語版提供時にこれは「つぶやき」と意訳され,現在でもツイートすることを「つぶやく」,ツイートそのものを「つぶやき」と呼ぶことが多いようです。 これは一見うまい訳に見えますが,僕にはこの「つぶやき」という言葉がツイッターを正しく認識することを妨げているように思われます。 「つぶやき」とは「小声のひとりごと」のことです。 しかし,「ツイート」はむしろ「小声のひとりごと」とは正反対の性質を持つものではないでしょうか。

まず,「つぶやき」はごく近くにいる数人の人たちにしか聞こえません。 しかし,「ツイート」は個人差はあれどフォロワーという形で数万人が見ることもあり,そこには赤の他人も含まれます。 「つぶやき」は(時にはつぶやいた本人からも)すぐに忘れ去られてしまうものです。 しかし「ツイート」はTL(タイムライン)が流れていくとはいえ「遡る」ことが可能です。 「つぶやき」では間違えたことを言っても簡単に言い繕うことができます。 しかし「ツイート」での失言は完全に消し去ることはできません。 これらは全て,発言が劣化のないデジタル情報として記録されることで生まれる違いです。 この「ツイート」の性質を理解して発言することは,いわゆる「ネットリテラシー」として当然のことといえます。 しかし,ツイッターがバカ発見器と呼ばれるのは,現実の「つぶやき」と同じ感覚でツイートをする人たちがいるからでしょう。 ツイッターの不自由さとは,この「『つぶやき』だけど『つぶやき』じゃない」ということをきちんと認識できでいないことによるものだと思います。

「つぶやき」と「ツイート」の最大の違いは,他人の存在です。 現実の「つぶやき」では他人を意識して発言することはありません。 しかし,ツイッターではTLによって他者の存在を強烈に意識させられます。 そして,僕たちはフォロワーがどう思うかを考えて「〇〇なツイートはすべきでない」あるいは「〇〇なツイートをすべき」というルールのリストを作ります。 このリストは一定不変のものではなく,他者とのコミュニケーション・相互作用を通じて随時更新されていきます。 たとえば,あるツイートがリツイート・ファボされればこういうツイートはウケる,されなければウケないと学習したり,直接「〇〇なツイートはダメだよね」という会話をしたりすることで,リストを書き変えます。 それだけでなく,ただTLを読んでいるだけのときも,意識しないところでリストの内容は影響を受けています。 そして,僕たちはツイートするとき,その内容が自分のリストに適合的かということだけでなく,「他人が考えているであろうリスト」のことも考慮に入れます(G.H.ミードの「一般化された他者」がおそらくこれにあたります)。 このリストは規範,あるいは文化と呼ばれるものに似ています。 たとえば,2ちゃんねるやFacebookにもツイッターとは違った規範・文化(≒〇〇な発言をすべき・すべきでないというリスト)が存在しています。 上手にツイートできないのは,この規範の存在を漠然と感じつつも,うまく認識・理解できないことに起因するものなのではないかと思います。 つまり,異文化でのコミュニケーションに慣れていないのと同じなのです。