小松左京『復活の日』

  • SF

『復活の日』は,「未知の細菌による人類の滅亡」をテーマとして扱った小松左京のSF小説である。 今となってはありふれたテーマであるが,この作品が発表された1964年の日本においては先駆的なものであった。 あらすじは次の通りである。

生物兵器として研究されていた細菌MM-88が持ち出され,人知れずばらまかれてしまう。 MM-88はインフルエンザウイルスに寄生し,猛威を振るう。 そして,たった数ヶ月で五大陸の人類は全滅してしまう。 生き残ったのは,MM-88が活動できない極寒の地,南極に住む観測隊員だけであった。 数年が経ち,各国の観測隊が協力しあうことで南極での生活が軌道に乗り始めた頃,地震学者の吉住は,近くアメリカを巨大地震が襲うことを予測する。 そして,地震が起きた場合,ソ連の攻撃と誤認識したアメリカの自動報復システム(ARS)が,ソ連に向けて核ミサイルを発射する。 さらに,攻撃を受けたソ連においても,システムが自動で核ミサイルを放つ。 二度目の人類滅亡を防ぐため,吉住は,ARSを止めにホワイトハウスへと向かう死の行軍に参加する。

あらすじにするとあまりにあっけないが,半分以上のページが人類滅亡の過程に当てられている。 そして,その過程の描写にこそ,小松左京の真骨頂がある。 「人類滅亡」や「日本沈没」(あるいは「鉄人間」に「電気人間」)のようなナンセンスにリアリティを与えることにおいて,小松左京の右に出る者はいない(と僕は思う)。

ただ,小松左京が描いているのは,人類滅亡に際したハラハラドキドキのエンターテイメントだけではない。 また,バイオテクノロジーがもたらす危険性・リスクを伝えようとしているというのも少し違う。 あとがきで小松左京自身もはっきりと述べているが,「世界と人間とその歴史に関する一切の問題を『地球という一惑星』の規模で考えなおす」というのである。

この作品の背景には,冷戦がある。 といっても,僕自身はあまりこの時代については詳しくない(60年代といえばビートルズしか思い浮かばない)。 作品が発表された64年頃を調べると,62年にキューバ危機があったとある。 この頃,核戦争は現実に起こりうるものとして認識されていた。

『復活の日』において,人類は二度,滅亡の危機を迎える。 一度は生物兵器によって,二度目は核兵器によって。 大地震や巨大隕石のせいでも,ましてや宇宙人の襲来でもなく,人類自らが作り出した「人災」によって人類は滅ぼうとするのである。 作中では,「こんなバカなことがあるか!」という言葉が何度も繰り返される。 たかがカゼ(当時インフルエンザは風邪の一種と思われていた)によって人類が滅ぶという話もバカげているし,文明が滅んだ後も,システムが自動で残された人類を滅ぼそうとするというのもバカげている。 そして,物語の結末までもが,あまりに皮肉なものであり,バカバカしい。 しかし,それを描く作者はいたって真面目である。

では,小松左京は,キューバ危機のような人類絶滅の可能性を受けて,生物兵器や核兵器の開発がいかに愚かでバカげたことであるかを,それらの兵器によって滅びゆく人類を描くことを通して訴えようとしたのだろうか。

どうも,それだけではないらしい。

ここで,作中に出てくる三人の登場人物のセリフを引用しようと思う。 まずは,WHOのデュボワ博士が,人類的使命を帯びた医療従事者でさえも政治に左右されるという話の延長で語った言葉である。

個々の人間はそれぞれ理由をもって行動し,決してバカなどではない。バカどころか,それぞれの分野では,大変な知恵者ぞろいだ。しかし,人類総体の見地から見た時,そのやっていることはきちがい沙汰みたいな事が多い。——医学は人命を救おうとする一方,呪わしい細菌兵器の研究にも利用されている。核兵器も電子工学もそうだ。一方で人類を助けようと努力し,他方で人類を絞め殺そうと努力している。——徐々にその方向に向かっているとはいえ,人類全体が,人類としての総体的な自己意識を獲得するのはいつの事だろうね?

次は,文明史を専門とするスミルノフ教授による最後の講義の一部である。

いかなる天才も,万能ではありません。——ルネッサンスの普遍人の概念は,素朴な精力崇拝の復活に裏打ちされた自信にすぎませんでした。そして全人的という概念は,全人類的な,知性の総体という意味に考え直さねばなりません。個々の知性は,それ自体で,自律的に普遍的なのではなく,相互に補完的と考えるべきであります……。この考えは,万能の天才の迷信を退けることによって,才能のますます分離細分化して行く専門化をおしすすめるものではなく,また単に天才の失墜をもたらすものでもなく,むしろふたたび知識人や学者に,その専門をこえての対話と協同を恢復するものであったでしょう。——そしてそれはまた,知性,あるいは理解力に対するデカルト的信頼を通じて知識人と大衆とを,ふたたびつなぐものにさえなったでしょう。

デュボワ博士の「人類としての総体的な自己意識」と,スミルノフ教授の「全人類的な知性の総体」は,ほとんど同じものだと思われる。 ここでは,個別の利益ではなく,人類全体の利益を考え,協力し合って総体的な知性をなす必要を訴えている。 最後に,南極唯一の微生物学者ド・ラ・トゥール博士の手記から引用する。

人類は結局——巨大な宇宙の偶然にもてあそばれるひとひらの塵にすぎなかったのではないか? 短い一生しかもたない人間にとっては,永遠と思える繁栄の歴史も瞬時の破滅も,すべて宇宙の偶然の一こまの裏表にすぎないのではないだろうか?
この認識は,決して人間の精神を無力な,ペシミスティックなものにしないだろう。"物"に,"自然"に,"宇宙"に施された運命のはかなさの認識は,かえって人間のもっとも人間的なるもの——俗世間的なものでなく,圧倒的な"物質的存在"と峻別されてある"人間存在"——精神の姿を,よりいっそう明瞭にするものではあるまいか? 物質と決別し,偶然と闘うことを宿命づけられた人間精神の姿が明瞭になれば——闘うべき相手は,同胞ではないということが時代の普遍的認識となれば,それは一切の人間対人間の骨肉相はむ争いをおわらせ,かわって"物質"と対決すべき連帯が生まれるのではないか? 人間が人間を苦しめ,傷つけ,殺し,"物質"に還元しようとするすべてのこころみに,終止符をうつことができたのではないか?——すくなくとも,"世界"があるうちに,この認識が普遍化されていたら!

ここに,「世界と人間とその歴史に関する一切の問題を『地球という一惑星』の規模で考えなおす」という言葉の指す内容が現れている。 つまり,宇宙的視点に立てば,人類とその文明は,偶然に左右されて死に絶えたり生き残ったりするような,あまりに儚い存在である。 そして,この認識が全人類に共有されれば,「人類としての総体的な自己意識」あるいは「全人類的な知性の総体」が達成され,人類の抱えるあらゆる不合理が解消されるのでないか,というのである。 小松左京が描いたのは,その"認識"が普遍化され,"連帯"を達成した南極人の姿なのである。 そして,「復活の日」とは,人類がそうした新たな"知性"を備えて,いつか改めて繁栄する日を指す。

はたして,人間の有限性の認識の「一般化」は可能なのだろうか?

小松左京自身,この問題の考察に対して非力であることを認めている。 しかし,小松左京は,「人類全体の理性に対して,——特に二十世紀後半の理性に対して,はなはだ楽観的な見解を持っている」ともいう。 実際,二十世紀後半に冷戦は終結し,破滅的な状況は回避された。

では,二十一世紀はどうだろう。 二十一世紀最初の年にアメリカ同時多発テロが起こり,テロとの戦いが始まった。 2016年の今も,IS (Islamic State) という巨大なテロ組織が世界に憎悪をばらまいている。 「闘うべき相手は,同胞ではない」などという認識が,人類共通のものとなるなどというのは夢のまた夢である。

そもそも,個々の人間は人類全体の利益を考えられるようにはできていない。 そうでなければ,合理的個人を前提とする経済学は成立しない。 そして,複数の合理的個人は,ともすれば「囚人のジレンマ」に陥る。 軍縮が進まないのも,「囚人のジレンマ」の一つである。 外側からそれをバカバカしいと非難するのは簡単だが,その仕組みの内側にいるプレイヤーにからしてみれば,他に選択肢はないのである。

小松左京は,あまりに楽観的だと思う。

ところで,伊藤計劃が『ハーモニー』で目指した世界は,小松左京の目指しているものに重なる部分がある。 『ハーモニー』で描かれるのは,すべての人間は世界にとって欠かすことのできないリソースであるという意識,「リソース意識」が普遍的認識に近づきつつある社会である。 しかし,この作品の結末では,社会の調和=ハーモニーの究極的実現ために,人間の「意識」は消滅させられる。 小松左京が「物質」に対し,人間の「精神」に重きを置いたのとは全くの逆である。

伊藤計劃は,あまりに悲観的である。 これが,高度経済成長の60年代日本と,失われた20年の2000年代日本の違いだろうか。