伊藤計劃『ハーモニー』

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僕は20歳のこの時期,ジョージ・オーウェルの『1984年』に衝撃を受け,SFにハマりました。 そして,この伊藤計劃『ハーモニー』を読み終えた時に感じたのは,そのときの感動に引けを取らぬものでした。 さんきちについての「影響を受けた作品」からも分かるように,僕はSFの中でも特に,ディストピアやサイバーパンクのような反社会的な題材を扱ったものが好きなようです。

僕は文学におけるSFは音楽におけるロックに近いものだと考えています。 南田勝也はロックを〈エンターテイメント・娯楽性〉〈アウトサイダー・反社会性〉〈アート・芸術性〉の3つの指標で定義できるとしました。 このどれか1つでも満たしていればロックである,と。 しかし,ビートルズやジミヘンのように,ロックスターはこの3つ全てを備えている。 日本でいえば尾崎豊もそうですし,僕に言わせればYMOもロックスターです。 同じように,偉大なSF作品もこの3つの指標を備えていると思うのです。 そして,『ハーモニー』はまさしく,最高にロックな作品でした。

このような音楽との比較を持ちだしたのは他でもなく,「ハーモニー」という言葉が和音,とくに心地のよい「協和音」を意味する言葉だからです。 小説内では「調和」にそうルビが振られていますが,それは一体何を意味するのでしょうか。 ある作家は小説とは「問い」であると言いました。 ここからは,『ハーモニー』が投げかける強烈な「問い」について考えていきたいと思います。 (小説を読んでいないくてもできるだけ分かるように書くつもりですが,ネタバレを含んでいます。)

生命主義とフーコー

『ハーモニー』では,医療の発達した21世紀後半,人々の健康を第一とする「生命主義」が支配的なイデオロギーとなった社会を描きます。 そこでは,成人はWatchMeという恒常的体内監視システムを身体にインストールしており,それは身体の状態を「生府」のサーバに送信します。 そして,人々は生府の助言に従って身体を健康に保たねばなりません。 なぜなら,すべての人間は世界にとって欠かすことのできない「リソース」であり,それを傷つけることは「公共的正しさ(パブリックコレクトネス)」に反するからです。 健康についての指示は,コンタクトレンズの拡張現実に現れます。 また,WatchMeと拡張現実により個人情報はオープンなものになりました。 もはや「プライベート」という単語は卑猥な意味しか持っていません。 相手を見るだけで名前や年齢,職業,社会評価点等を確認することができます。 社会評価点とは,リソース意識の高さやボランティア等の社会への貢献度を表す指標です。 「調和(ハーモニー)」とは,このような人命を何よりも大切にする,慈愛に満ち満ちた社会を形容する言葉なのです。

こんな社会の「息苦しさ」は想像にかたくありません。 事実,健康社会は自殺率の上昇という問題に直面しています。 社会学者デュルケムは自殺を4つに分類しましたが,この自殺の類型は,有名な「アノミー的自殺」とは対極の「宿命的自殺」に当たるのではないかと思います。 つまり,「過度の規制から生じる自殺であり、無情にも未来を閉ざされた人々の図る自殺」です。 そして,過度な規制とは,拡張現実による他者たちの外側からの監視と,WatchMeによる途切れることのない物理的な内側からの監視です。 そのような状況では,人々は生命主義を受け入れ,その規範を内面化するほかありません。 生命主義社会によるフーコーの生-権力の完成です。 さらに,究極的には自殺さえも「薬物や革新的なセラピーの開発と法制化で制御可能」になるといいます。 しかし,薬物やセラピーでの制御とは,「洗脳」とどこが違うのでしょうか。 健康社会とは,つまり「監獄」そのものであり,そこに「自由」はありません。 結局,人間には適度な「不協和音」も必要なのです。 以下は,登場人物のミァハのこの社会についての言葉です。

このカラダはわたしのもの。わたしはわたし自身の人生を生きたいの。互いに思いやり慈しむ空気に絞め殺されるのを待つんじゃなくってね

わたしたちは互いに互いのこと,自分自身の詳細な情報を知らせることで,下手なことができなくなるようにしてるんだ。この社会はね,自分自身を自分以外の全員に人質として差し出すことで,安定と平和と慎み深さを保っているんだよ。

「権力が掌握してるのは,いまや生きることそのもの。そして生きることが引き起こすその展開全部。死っていうのはその権力の限界で,そんな権力から逃れることができる瞬間。死は存在の最も秘密の点。もっともプライベートな点。」「誰かの言葉,それ」「ミシェル・フーコー」

しかし,『ハーモニー』のディストピアはこれで終わりではありません。 健康社会が不自由であるという問題を抱えるのは,健康社会そのものの問題ではなく,自由を感じる主体の問題なのではないか。 つまり,人間の「意識」をなくしてしまえば解決するのではないか,といいます。 おそらく,これだけでは突拍子もない主張に聞こえるでしょう。 作中では,このアイデアを優生学的な観点から丹念に補強していきます。 プラトンは身体が魂の牢獄であると考えました。 身体に対して魂=意識が優位であるはずだということです。 しかし,本当は逆で,魂が身体の牢獄なのではないか,つまり,意識よりも身体が優位にあると考えることはできないでしょうか。

わたしは逆のことを思うんです。精神は,肉体を生き延びさせるための単なる機能であり手段にすぎないかも,って。肉体の側がより生存に適した精神を求めて,とっかえひっかえ交換できるような世界が来れば,逆に精神,こころのほうがデッドメディアになるってことにはなりませんか

人間が身体を日々医療分子によって制御し,病気を抑えこんでいるというのに,脳にある「有害な」思考を制御してはならないという理由があるのかね

人間にとって存在してもよい自然とみなされる領域は,人類の歴史が長引けば長引くほど減ってゆく。ならば,魂を,人間の意識を,いじってはならない不可侵の領域と見なす根拠はどこにあるのだろう。人類は既に「自然な」病の大半を征服してしまっているというのに。

自然が生み出した継ぎ接ぎの機能に過ぎない意識であることを,この身体の隅々まで徹底して駆逐して,骨の髄まで社会的な存在に変化した方がいい。わたしがわたしであることを捨てたほうがいい。「わたし」とか意識とか,環境がその場しのぎで人類に与えた機能は削除したほうがいい。そうすれば,ハーモニーを目指したこの社会に,本物のハーモニーが訪れる

完璧な人間とホモ・ソシオロジクス

では,魂のない人間とは一体どのような存在なのでしょうか。 これについては「哲学的ゾンビ」という思考実験があります。 哲学的ゾンビとは,意識を持たない人間のことですが,見かけ上は意識を持つ人間と区別することができません。 たとえば,私たちは和音のうち,メジャーコードを明るい,マイナーコードを暗いと「感じる」ことができます。 この意識が感じることのできる和音の質感を「クオリア」といいます。 しかし,このクオリアを感じていなくても,メジャーコードは明るい,マイナーコードを暗いと「知って」いれば,人間として何一つ問題なくコミュニケーションできてしまいます。 つまり,意識のない,魂のない人間は,意識のある人間と変わらぬ日常を送り続けることができるのです。

しかし,哲学的ゾンビが「骨の髄まで社会的な存在」とはどういうことでしょうか。 おそらく,ここで想定されているのは,ラルフ・ダーレンドルフの提唱した「ホモ・ソシオロジクス(社会学的人間)」です。 これは,ホモ・エコノミクスが経済的合理性を追求する理念型であるのに対して,社会的に与えられた役割を忠実にこなす理念型を指します。 しかし,人間は自我を持つため,ホモ・ソシオロジクスのモデルですべてを説明することはできません。 逆にいえば,人間は自我を失えば,ホモ・ソシオロジクスになることができるということです。

社会と完璧なハーモニーを描くよう価値体系が設定されているため,自殺は大幅に減り,この生府社会が抱えていたストレスは完全に消滅する。

社会的存在として完全に純化し適応した人間が最小単位となったとき,社会学と経済学は完全な純粋理論と現実の一致をみた。
表面上は,勿論何も変わらなかった。
人々は哀しみがあるように泣き,怒りがあるように怒声を発した。しかし,それはかつての社会でいうならばロボットが真似した喜怒哀楽の反応とほぼ同価値の意味しか持たなかった。すべての人から,内面というものが消し去られたのだから。

私たちは,『ハーモニー』の結末をどう受け止めればいいでしょう。 人間はその存続のために意識を捨てるべきだ,という主張は正しいのでしょうか。 脳科学や遺伝工学,情報学の発展は,こうした哲学的な問いをいつか現実のものにします。 実際,医学の発展は生と死の境を曖昧にし,死とはなにか,生とは何かという問いを私たちに突きつけてきています。 次に曖昧になるのは,間違いなく「心」と「身体」です。 これは,究極的にはデカルト以来の心身二元論が否定されるということです。 『ハーモニー』はそれを示唆します。 この小説の「問い」に答えるため,まずはミァハの「善」についての話を引用します。

善,っていうのは,突き詰めれば「ある何かの価値観を持続させる」ための意志なんだよ。
そう,持続。家族が続くこと,幸せが続くこと,平和が続くこと。内容はなんでもいいんだ。人々が信じている何事かがこれからも続いていくようにすること,その何かを信じること,それが「善」の本質なんだ。
でも,永遠に続くものなんてない。そうだよね。
だからこそ「善」は絶えず意識され,先へ先へと枝を伸ばしていかなきゃならないんだ。善は意識して維持する必要があるんだよ。というより,意識して何事かを信頼し維持することそのものを善と呼ぶんだ。

この「善」とは,いわゆるイデオロギーです。 「幸せ」「平和」「健康」を正しいとする価値観も,結局はひとつの善,イデオロギーでしかありません。 そして,イデオロギーは真理の一側面ではあっても,決して普遍的真理などではないのです。 確かに,優生学は真理として強固な魅力を持っています。 それは科学の衣をまとっており,いかにも「事実」であるかのように見えます。 しかし,それとてひとつのイデオロギーでしかなく,普遍的正しさを証明することはできません。 たとえば,現代において支配的な善である功利主義の立場からすれば,優生学を基礎とする「人間は意識を捨てるべきだ」という主張は正しくありません。 功利主義とは最大多数の最大幸福を正しさとするものであり,意識を失った人々は「幸福」を感じることができないからです。 本文最後の「いま人類は,とても幸福だ。」という言葉も,「幸福」がそのクオリアを伴っていないのため,全くの無意味です。

しかし,これで『ハーモニー』の問いに答えられたかというと,そうではありません。 いま,僕は功利主義的正しさからミァハの主張を否定しました。 しかし,彼女にはこの選択肢はありません。 なぜなら,ミァハを含め人々は,生命主義の生-権力にがんじがらめに囚われているからです。 そして,それは現代の僕たちにも同様に当てはまるものです。

民主主義以降,人々を律するものは,王様みたいに上から抑えつけるんじゃなくて,人々のなかに移っていった。みんなが自分で自分を律することになっていたんだよ。
みんなひとりひとりのなかにあるものが敵だった場合,わたしたちはどうすればいいの。

この問いに,僕はまだ答えることができません。 ちなみに,フーコーは「実存の美学」をもって生-権力に対抗できるとしました。 また,真理とイデオロギーについては,個人的にマンハイムの相関主義が面白いと思っています。 しかし,これは答えにはなりえません。 物語中では「ほどほど」がその答えであるかのように示唆されていますが,その「ほどほど」でさえ,ひとつのイデオロギーに過ぎないのです。

etmlと自己言及

最後に,この物語全体への疑問について。 僕には,どうもエピローグがうまく咀嚼できません。 etmlの説明と物語への自己言及の意味がよくわからないのです。 (etml自体はとても雑なマークアップ言語だと思います。ただ,本編最後の<null>わたし</null>には本当に鳥肌が立ちがました。) etmlは,哲学的ゾンビと化した人々が「感情」を生起させるためのものだといいます。 しかし,なぜそんなものが存在するのでしょう。 人間には生存の欲求と同様に,感情そのものへの欲求があるということでしょうか。 いまいち納得のいく答えが出せません。 そして,誰がトァンの脳からその記憶を引き出し,物語にしたのか。 「システムに完全に準拠した現在の人間にとって,旧人類がヒーローや神と呼んでいたようなアイコンはまったく不必要だが,それを知っておくことも無駄ではない。」この一文もよく分からないままです。 etmlの存在はシステムに完全に準拠した人間を否定するものではないのでしょうか……?

もうひとつ。 書いている途中で気づいたのですが,WatchMeは子どもには入れられないんですよね……。 つまり,子どもの意識を消すことはできない。 ということは,子どもの自殺は解決しないのでは……? あれ?