〈オデッセイ〉シリーズ(アーサー・C・クラーク)
- SF
アーサー・C・クラークの〈オデッセイ〉シリーズ(『2001年宇宙の旅』(1968), 『2010年宇宙の旅』(1982), 『2061年宇宙の旅』(1987), 『3001年終局への旅』(1997))を読みました。 クラークの作品は他に『幼年期の終り』(1953)のみ読んだことがあります。
この物語は,人類はサルからヒトへと「自然に」進化したのではなく,実は「意図的に」進化させられたのであった,というところから始まります。 圧倒的な科学力を持った何者かが地球に残した万能マシン「モノリス」がサルたちに道具の使い方を教えたことにより,その進化が促されたという設定です。 そして,2001年,月で「モノリス」が発見されます。 それは地球外知的生命が存在するという証拠であり,また人類にはとうてい解明できない科学でした。 研究者たちはなんとか,モノリスが土星(映画では木星)付近に信号を送ったということまでは突き止めます。 かくして,モノリスの謎を解く宇宙の旅が始まります。 これは『2001年宇宙の旅』の冒頭部分ですが,シリーズ全体も基本的にこの「モノリス」をめぐる物語となっています。
ここからは,このシリーズについて考えたことを「宇宙・生命・進化」の3つを軸に書いていきます。
まず,「宇宙」に関して。 このシリーズの舞台は基本的に宇宙空間です。 宇宙船やそこでの生活,「イオ」や「ガニメデ」などの木星の衛星群,ハレー彗星等々,本当にこと細かに描写されています。 そして,そのどれもが非日常的・幻想的であり,驚きに満ち満ちています。 宇宙,科学に造形の深いクラークだからこそなしえた技でしょう。 高校レベルの物理・化学しか知らない僕には全く理解できない専門的な話もありました。 ただ,それでも充分に楽しめる内容になっています。
最近の宇宙に関する話題として,9月13日にはボイジャー1号が太陽系の外にいると報じられ,9月14日には日本のイプシロンが打ち上げられました。 ちょうどその頃『2010年』を読んでいた自分にとってはとてもホットな話題でした。 特に,『2010年』の木星衛星群の描写はボイジャー1号の調査を参考にしていたそうです。 そのボイジャーがいまや太陽系の外とは!
思えば小学生の頃,宇宙に関する本なんかを読んでは,圧倒的なスケールや謎の多さ,その神秘に胸をときめかせたものです。 長らくそんな気持ちも忘れていましたが,この本を読んでいるうちにその記憶が蘇ってきました。 現実の社会に生活しているうちは,目の前にあるものだけが全てに見えて,自分たちが果てしなく大きい宇宙のほんのちっぽけな存在であることを忘れしまいがちです。 でも,たまには夜空を見上げて広大な宇宙に思いを馳せるのも,そう悪くはありません。
また,このシリーズは単なる宇宙飛行ものにとどまりません。 その違いを決定的にするのは「モノリス」の存在です。 特に映画におけるモノリスの存在感は圧倒的です。 キューブリックのその描写には舌を巻きました。 モノリスは別の世界の知性が残したものであり,人間にはどうすることもできません。 映画ではその不気味さが強調されすぎなくらいに強調されています。 それは,人間の理解を超えた未知なるものへの恐怖そのものでもあります。
もし仮に,モノリスのような人類以外の知的生命の存在を証明するものが見つかれば,人類に与える影響ははかりしれません。 作中でクラークは,人類が宇宙に孤独でないことを知れば,すべての人の人生や価値観,哲学が微妙に変質する,と断言しています。
人間の知性を遙か凌駕するモノリスの製造者は,最終的に人類を殲滅しようとします。 彼らは全宇宙において知性を促す事業を手がけており,その一環で人類の祖先に道具の使い方を教えたのでした。 そして彼らはまた,その「後始末」も行っています。 つまり,人類を知性の「失敗作」と見なし始末してしまおうとするのです。 以前『宇宙戦争』の際にも書きましたが,人類はまだまだ「野蛮」の域を出ていないという点で,ウェルズとクラークは同意見のようです。
そして,「生命」という点で忘れてはならないのが,シリーズ全作に登場する自意識を持った人工知能「HAL」です。 映画でのHALはモノリス同様強烈な印象を与えます。 何度も意味深にクローズアップされるカメラの赤いレンズは,HALが何かを「考えている」ことを物語っています。 『2001年』ではHALは暴走し最終的に破壊されてしまうのですが,壊される寸前,HALが何度も何度も「I'm afraid」と繰り返すシーンは忘れられません。
生命が宿った機械の話は,SFの王道として様々な作品で描かれています。 そのテーマは,自意識や恐怖の感情を持つロボットは人間と本質的にどう違うのか,つまり,ドラえもんを単なる無機物の集積やプログラムの結果とみなして,売買したり,奴隷のように働かせたり,簡単に壊したりできるか,ということです。
これは空想の話ではなく,近い将来に現実に起こりうる問題です。 実際,僕が生きている内に思考する人工知能が生まれるだろうという技術予測もあるようです。 しかし,科学や技術はめまぐるしく進歩していきますが,人間の思想や哲学,つまり思慮深さはまだまだそれに追いついていません。 原爆や核ミサイルはその顕著な例といえるでしょう。 いわば人間は拳銃の使い方を知ったサルでしかないのです。 人類はまだまだ,自らと異なる知性を生み出して良い状況にはないと思います。
とはいうものの,人類は進化する生き物です。 思想や哲学もいつかきっとその水準に達するでしょう。 では,クラークは人類の展望についてどう考えているのか。 次の引用はモノリスの製造者たちに関する記述ですが,クラークが進化の果てをどう考えているかは明らかです。 これは,『幼年期の終り』にも示されています。
機械が肉体を凌駕するやいなや,移行のときが来た。はじめは脳を,つぎには思考そのものを,彼らは金属とプラスチックの光りかがやく住みかに移しかえた。
こうして彼らは星の海をさまよった。もはや宇宙船はつくらない。彼ら自身が,宇宙船であった。
だが機械生命の時代は急速に終わった。休むことなく実験をつづけるのち,彼らは,空間構造そのものに知識をたくわえ,凍りついた光の格子の中に思考を永遠に保存する仕組みを学んだ。物質の圧制を逃れ,放射線の生物になることが可能になったのだ。
当然の成行きとして,彼らはほどなく純粋エネルギーの生物に変貌した。
実に大胆不敵な予想ですが,不可能とは言い切れません。 何万年,何億年,あるいは何兆年のオーダーで考えれば何事も起こりうるでしょう。 絶滅さえしなければ,ですが。
はじめの「機械への移行」は,今世紀のうちに始まるかもしれません。 現在,次世代のパソコンとして,Google Glassに代表されるウェアラブルコンピュータの研究が進められています。 これらはできる限りコンピュータの存在を意識させず,いつでも,どこでも,誰でもインターネットにアクセスできるユビキタス社会を実現するものです。 これを機械との一体化への第一歩と考えるのは早計でしょうか。
クラークは『3001年』でその一端を示しています。 手の中に埋め込まれた個人識別用のチップ,ニューロマンサーや攻殻機動隊を彷彿とさせるブレインキャップ等々です。 また,『3001年』での技術面のフィクションとしては,高さ3万6千キロ,つまり宇宙空間へと伸びるスターシティの構想も大胆です。
しかし,技術面に比べると,先ほど必要だと述べた思想や社会の進歩については,『3001年』であまり多くは語られていません。 人間全体が落ち着いたため感情的な議論はなくなったとか,犯罪や自殺はなくなっていない,ということくらいでしょうか。 やはりクラークは自然科学よりのSF作家であり,社会科学や哲学の方面ではあまり面白い未来予想はありませんでした。
ただ1点,クラークは宗教について多くを語っています。 それは,宗教の非合理性を批判し,いずれなくなるだろう(なくなるべき)とする議論でした。 この点に関しては,いささか短絡的すぎやしないかと疑問を感じずにはいられませんが,それはもう少し勉強してから,いずれゆっくりと考えてみたいと思います。
最後に一言。 2001年や2010年はもう過ぎ去ってしまいましたが,2061年は僕が経験できるかもしれない未来です。 さらにその先の3001年や人類の進化は想像するしかないですが,この21世紀の変化だけでもきっと相当な変化があるでしょう。 その変化を楽しみつつ,よりよい未来に向けて僕自身もできれば貢献していきたいと思います。 なんだか締りのない文章になってしまいましたが,今回はこれで。