宇宙戦争(H.G.ウェルズ)
- SF
僕たちの世代で「宇宙戦争」といえば,おそらく監督スピルバーグ,主演トム・クルーズの映画を思い浮かべると思います。 今回僕が読んだのはH.G.ウェルズの書いたその原作です。 それは1898年(!)に発表され,これまでに何度もアレンジが加えられてきたSFの古典です。 2005年にはスピルバーグのものを含め,この『宇宙戦争』を題材に3つの映画が公開されたことからも,その影響力が今なお衰えていないことが伺えます。
僕自身ウェルズの『宇宙戦争』を読むより前にスピルバーグ監督の映画を見ました。 その映画は「現代版」宇宙戦争として原作にのっとって描かれています。 そして,その「現代版」を観た上で原作を読むと100年でいかに世界が変わったか驚かされます。 まず,現代版では宇宙人から逃げるのに自動車を使いますが,原作では馬車です。また,ライト兄弟が飛んだのが1903年ですから飛行機もまだ発明されていません。 原作の主人公は,侵略に来た火星人が機械を使って飛ぶというだけでその科学力の差に絶望します。 そして世界大戦も経験していません。 火星人が熱線や毒ガスを放出し,素早くなめらかな動きをする巨大なロボットに乗っているのに対し,人類は「大砲」で対抗します。 僕らの感覚では「大砲(笑)」ですが,この100年で兵器がいかに発達したかを考えると怖くもなります。 他にも鉄道は蒸気機関で動いていますし,通信技術も「電報」程度。しかし,これらの科学技術の違いを除けば,今でもなんら問題なく読める小説です。 これだけ環境が変わっても人間の心理や行動はなんら変わっていないということでしょう。
この『宇宙戦争』が他の宇宙人もののSFと異なるのは,現れる異星人と全く意思疎通ができない点にあると思います。 侵略に来た火星人は,高度な知性を持ちながらもどこまでも利己的で,無慈悲に人類を殺戮し地球を支配しようとします。 また彼らは消化器官を持たず,他の動物の血液を直接自らに流しこむことで養分を摂取します。 すなわち,彼らは人間の血を吸うのです。
フィリップ・K・ディックは『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』で「思いやり」の心を人間の特徴として描きますが(『アンドロイド〜』では人間とアンドロイドの対比でですが),確かに他の知的生命体が人間と同じような感情を持っていて,話し合うことができればきっと分かり合えると考えること自体間違っているのかもしれません。
しかし,ディックが人間は思いやりを持つと主張するのに対し,ウェルズは作中で何度も,火星人の人類に対する行為を人類の他の生物に対する行為に喩えます。 つまり,「火星人の冷酷さに不平を言えるほど,人類は他の動物に対して慈悲深いだろうか」ということです。 ウェルズがこの作品で言いたかったことは,この問いに尽きるのではないかと僕は思います。 そして,この問いは100年以上たった今も僕たちに重くのしかかります。
主人公が火星人から逃げる中で出会ったある兵士は,次のように語ります。
ひろびろとしたりっぱな檻,滋養たっぷりの食い物,行きとどいた飼育,なにひとつ苦労はない。 (中略) しばらくたつと連中はすっかりうれしくなるだろう。火星人が世話を見てくれるようになるまえは,人間はなんてばかな真似をしていたか不思議に思うだろう。 (中略) 火星人どもは,人間のあるものをペットにすることも大いにあり得る。訓練して芸をさせたり――そんなことはないとはいえない――育て上げたあげく,殺さなくてはならないペットの少年に情がうつったりしないものでもない。また,おそらくあるものは訓練してわれわれを狩りたてるのに使うだろう。
もし,火星人がこんな風に人間を飼い慣らした場合,それが人間にとって良いことだと考える人はいないでしょう。 そこには「人間らしさ」がないからです。 人は人らしく生きる権利を持っているはずで,火星人の都合で生き死にを左右されるなんて御免こうむる,というわけです。
しかし,これは事実人類が他の動物に対して行っていることにほかなりません。 しかも,丁寧に飼育するのは人類にとって有益な動物に対してのみであり,そうでない動物は基本的に無視し,そして人間の都合に合わせて殺したり生かしたりします。 住む土地を奪うというのもその一つです。
火星人が人間を飼育することと,人間が他の動物を飼育することは違うという反論として,それらの動物には人間ほどの知性がないということが言えるかもしれません。 牛や豚,犬や猫は人間ほど複雑な感情を持っていないから,いつか殺されるとしても人間に丁寧に飼育される方が,野生に生きるより幸せな一生を送れるだろう,という主張です。 しかし,この点も最近は見直されつつあるようです。コスタリカ,ハンガリー,チリ,インドでは,イルカを「人類ではない人」としてイルカショーを禁止しています。つまり,イルカに人間同様の知性と感情を認め,芸を仕込んで見せものにすることを禁じているのです。
しかし,僕は知性の有無にかかわらず,人間に人間らしく生きる権利があるのであれば,どんな動物にもその動物らしく生きる権利があるのではないだろうか,と思います。 (僕は断片的な知識しか持ち合わせていませんが,この問題は現在では「種差別」として様々な議論があります)
僕の主張は動物博愛主義のように聞こえるかもしれません。 でも,実際の僕は犬猫を飼ったこともないし,むしろたいていの動物は近づくのも怖くて触るなんてもってのほか,というような人間です。 僕はただ単に,「他の動物に対して『人間』に特別の権利を認めるということは,他の人種に対して『白人』に特別の権利を認めることと同じではないのか」という問題を考えてみたいだけです。 これは,人種差別問題同様,「種差別」として僕たちがいつかちゃんと考えねばならない問題の一つだろうと思うのです。 科学や経済の発展以前に,「思いやり」ある人間であるために。
――話はまだ終わりではありません。 先に引用した兵士は,人間は家畜に堕ちてはならないとして火星人への壮大な復讐計画を語ります。 主人公もその話に感化され一緒に行動しますが,その兵士は実のところ,休憩ばかりでほとんど働かず,貯蔵された食糧や酒を贅沢に消費し,挙句の果てにはトランプで遊ぶという怠惰ぶりでした。 そして,主人公もそれにつられて遊んでしまい,後に激しく後悔します。
そう,人間はいくら理想を語ってもなかなか現実には行動できないものです。 自分もそんな人間の一人であることを常に心に留めておかねばなりません。 僕も「種差別」を考えるなんて言いましたが,現実には牛や豚,魚を食べることをやめるわけではないし,動物虐待に直接抗議活動をするわけでもありません。 結局は僕も,社会全体が動き出さない限り変わることのできない,小さな弱い人間の一人なのです。 それでも,この問題を考え,こうして書くことがその動きにつながると信じているわけです。
戦争の終了後,哲学者である主人公は自宅に帰ると自分の書きかけの論文を見つけます。
それは文明過程の発展とともに発展する道徳観念の将来の見通しについての論文だった。その最後の文章は予言の冒頭で「およそ二百年のうちには」とわたしは書いていた。「われわれは予期していいと思うが――」文章はそこでぷっつりと切れていた。
この小説が書かれてから100年と少しが経ちます。 ウェルズは道徳観念の見通しについては「書かなかった」。 この100年に科学,特に人を殺すための兵器が格段の発達を遂げたことは書きました。 それに対し,道徳観の方は人種差別も性差別もまだまだ解決したとは言えません。 僕たちは残りの100年足らずで,他の動物にも思いやりをかけられるような道徳観を持つことが果たしてできるでしょうか。 ウェルズの洞察は,本当に恐ろしい。